環藝録

写真でつなぐ広島風物記録

草津南一丁目の稲荷と地蔵

東西に長い第八公園の中ほどを道路が通過していて、公園の西半分への入口と、その隣に祠堂が二ヶ所。
説明板に「正一位福満稲荷とお地蔵さん」とある。赤い鳥居のある稲荷と、卍を正面に据えた地蔵堂。

草津の屋敷神だった稲荷は、屋敷が長州征伐時に幕府の司令部として使われた後も祀られつづけ、現在地に社殿を構えたのは戦後のこと。
地蔵堂の創建は明治43年。宮島にいた相撲取りの守り本尊であったとの古老の伝がある。「このお地蔵さんの台石に島ヶ谷小西川、衛宮錦など相撲に縁の深そうな姓名が彫ってある。」と説明板にある。
両社については『石仏石神等民間信仰調査報告』*1にも見える。


これより前の時代、文政二年「国郡志御用下しらべ書出帳帖」*2にも草津村の鶴之助が江戸で「角力取」になったとある。「當時*3越ノ海勇蔵与改名阿波様御抱角力ニ相成」という。
彼は『藝藩通志』の佐伯郡の「人物」の部には載っていないが、収録された七人のうち三人が人並みはずれた「膂力」の持ち主として紹介されている。

人名 村名 概略
坪井将監 坪井村 陰徳太平記に登場。折敷畑で戦う。六十四五貫の石を手で弄すと。
田熊平三郎 大竹村 元禄の人。賀茂郡広村の新開の際、木石を積んだ小舟を手でひっくり返して潮留に功ありと。
馬三十郎 宮内村 延享の人。隘路で荷馬をまるごと抱上げる。十四五人で運ぶほどの石地蔵を一人で背負う。一度の飯に米三升を食うと。

誇張はあるにしても、怪力を発揮する状況がそれぞれの時代や場所に応じて特色がある。

*1:(財)広島市歴史科学教育事業団編.1991

*2:所収:『新修広島市史第六巻』1959

*3:現在の意