環藝録

写真でつなぐ広島風物記録

誰曾廼森

延喜式神名帳に載る多家神社の所在地が不明になって近世に至る。その流れを汲むという松崎八幡と総社が互いに譲らず、明治六年に両社合併してこの誰曾廼森(たれそのもり)の地に社殿を築いた。
説明板に云う。「神武天皇が当地の者に「曽は誰そ」とお尋ねになったことからこの名がついたといわれている」
角が立たない言い方として、『藝州府中荘誌』*1

然れども予の考察する事に據れば、往昔の行宮は建物も極めて粗末にて、移転とか改築などに餘りの手數を要せない関係と、神武大帝七箇年の御留蹕といひ、又十二箇年なりといひ、何れにしても長年月の御滞在の事とて此の間場所を度々換へさせられ、最初に誰曾廼森、次に總社、次に松崎八幡といふ風に行宮を定めさせられたるには非ざるか、

ように、広めに解釈したりする。それでも、

藝藩通志にも現れたる如く、埃宮は佐伯郡地御前社であるとか、元高宮郡可部川の邊の大なる廃社の跡なりとか稱するは何等の根據なき浮説である、

と、念を押すことも忘れない。

*1:昭和四年