環藝録

写真でつなぐ広島風物記録

宮の城(みやのじょう)の神社と城

さきに挙げた延宝4年の「山手村可愛宮」というのは、『歴史地名大系35 広島県の地名』に引用されている『可愛宮の記』の文中の用例で、「山手村可愛宮の儀は人皇第一代神武天皇三年御在城、御軍御勝利の地也」という起源が語られる。

記紀に云う東征途中の安芸国の「七年」の滞留を前提としたうえで、その途中のエピソードが安芸国の各地にあってもいいとみなされる。必ずしも「埃宮」の本家争いに加わるわけではないので、まだ表記が一致しなくてもかまわない。もしも近世末の時点で「埃宮」を主張したとしても、『藝藩通志』が吉田の清神社について否定したのと同じ扱いであったかもしれない。

祇園社 (略)日本紀に載る、安藝國可愛川上これなりともいへり、此宮あるによれるか、されば當社も、古にありては、由緒ある社なるべし、或は神武天皇の行宮、埃宮とする諺もあれど、更に信ずるに足らず
藝藩通志』巻六十六 安藝國高田郡四 祠廟 廃祠附


「御在城」というだけあって、城館としての宮の城の出来事は『高田郡村々覚書』(宝永2年)に詳しく記され、『藝藩通志』にも簡潔にまとめられている。

宮城 川本村にあり、大内氏の麾下、堀江筑前の子、甲本*1某所居、此地もと神祠ありしを、他所に移し城居せしが、祟あるを以退去す*2、後毛利家より、關彌右衛門*3を置て守らしむ、又災ありて*4廢すといふ、
藝藩通志』巻六十八 安藝國高田郡六 城墟 宅地戦場附

「城館として」というよりも、いかにこの山が神社の地としてふさわしいかを語り伝えるようなエピソード。もしくは、いかにも城を建てたくなるような場所と見られていたか。
川本村の『国郡志御用ニ付下調書出帳』(文政3年)の内容はおおむね『高田郡村々覚書』と同じで、「関弥左衛門」の屋敷が火災に遭ったあと現れた「御神躰三社」がどれにあたるのかについて触れている。

三社之神と申ハ只今之川本村八幡山手村大明神中馬村八幡と被相考申候尤中馬村八幡社は其後同村へ社を建引取之由にて只今は川本山手氏神計り御座候


*1:『覚書』には「堀江甲本殿」

*2:『覚書』には堂本へ退いた後「大内之家も末に成甲本殿も爰にて死去」、「甲殿社」として祀る

*3:『覚書』には「関野治左衛門殿」

*4:『覚書』には「家形悉く焼失仕跡に三社之御神躰御座候由」