環藝録

写真でつなぐ広島風物記録

芸備国郡志の「西條石棺」

南方村の「下調帳」*1は「但し」と続けて、

但し芸備国郡誌■油塚の石函西条に在りと有之由この石船の事にて西条とは地名を謬るもの
『南方村国郡誌編改御用書上帳』沼田文化研究会.1992

とある。旧国郡志の「編改」すべき項目の一つとしてこの油塚がある。
黒川道祐編、寛文の『芸備国郡志』にはこうある。

西條石棺 在賀茂郡中西條方二丈許有凾有盖號曰油塚相傳親王之墓也未知何世人而又爲何親王
『宮島町史 資料編・地誌紀行 1』宮島町.1992

道祐がどういうわけか間違えたのか、情報源からして間違ってたのか。「南」と「西」を取り違えたものか。同じ西国街道沿いだからか、またはその直前の項の「聖武天皇*2」の関連か。
「二丈許有凾有盖」。二丈*3だとどちらかというと玄室の奥行に近い。「函」が石室内の石棺だとすると、それとセットになる「盖」が有る状態が知られていたらしい。
もし「號曰油塚」の部分が無かったら、南方村とは別の場所になりかねなかったところ。
ここでは「相傳親王之墓也」とあるが下調帳では「上代富貴の人の墳墓か」という推測になっている。特定の親王の名前で飾られることはなかったらしい。親王だと嘘っぽいという判断がはたらいたものか。
『続々群書類従第九 地理部』所収の『芸備国郡志』では、

親王石棺 在豊田郡一間餘許有凾有蓋號曰油塚相傳親王之墓也未知何世人而又爲何親王

となっている。名前から「西條」が無く、「賀茂郡」は「豊田郡」に、「二丈」は「一間餘」という違い。『芸藩通志』の「長六尺」*4と『下調帳』の「長さ七尺」の部分にあたる。

*1:略した。

*2:国分寺

*3:二十尺、約6m

*4:一間