毛保川の、山陽本線よりも上手の大野中央と大野原を結ぶ橋のひとつ「毛保橋」。
昔からの橋で低い欄干なので、フェンスが継ぎ足されている。
その附近では川の水はほとんど見えず、大量の砂が川床を埋めるなかに細い窪みが線を描くのみ。
文政期の大野・口谷尻村についてまとめた『国郡志下しらべ書出帳』(大島〓*1『古文書への招待』大野町.1990)に、村内の永慶寺川と毛保川の様子が記される。
野山津へ抜ケ(ずえぬける―鉄砲水が出て抜けた穴のようになる様―山崩れのこと)谷々より砂流出、当時川筋埋り左右田地(でんじ)水支(みずつかえ)、土地合(とちあい)悪敷(あしく)相成、両作とも不熟仕、毛保川筋も同様ニ候、
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河口付近のようすは「毛保大橋」*2ですでにみたとおり。