渡し舟
昭和36年に音戸大橋が開通するまでは、当然ながら音戸・倉橋へわたるには船によらなければならなかった。現在も随時運行。
昭和8年*1の『呉軍港案内』*2に音戸の瀬戸も紹介されており、「警固屋海岸の鍋波止場から、音戸町へは渡し舟がある」とあるだけでなく、「呉驛よりバスありまた川原石海岸より鍋波止場(約三浬半)までは機船の便あり」という、運賃15銭の機船が運行していた。
娘
橋をかけたや
音戸(おんど)の瀬戸へ
通(かよ)てゆきたや
船大工さんよ船大工
汐にせかれりや
橋ア流る
(「娘と船大工」野口雨情 おさんだいしよさま![]()
)
野口雨情作詞の「娘と船大工」は大正14年の発表。
瀬戸を通過する船
広島松山間のフェリーのように、多くの船が音戸の瀬戸の狭い水路を通過する。
CiNii 論文 - PDPC法による海難分析 : 音戸瀬戸を対象として
件数はさほど多くないものの、すれちがう船同士の衝突事故が注意される場所でもある。
厳島との連絡
中世・近世にさかのぼると、都から厳島へ詣でる途中で通る難所であったり*3、またはその逆の方向で厳島から東へ向かう際に泊まるような立地であった。
筑前芦屋の小田宅子が天保12年の東国への旅を記した『東路日記』では、2月8日(旧暦)に厳島から船に乗り音戸で一泊している。
八日、こゝよりみちのく人と同じ船にのりて、その明るよは音戸のせとに泊まる。
九日、清盛ノ塚にまうづ。ある人こゝは清盛のにらみのせとゝとて、潮の中に浪の立かはる所ありといふ
見るめかるあまこそ見えねそのかみのにらみのせとの塩のゆきあひ
CiNii 論文 - 福岡女子大学附属図書館蔵『東路日記』翻刻・解題(上)![]()

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隠戸を過て、汐もむかひ、風も力なく、日暮にたれば、船を海中にとゞめて、物くひ酒のみて臥しぬ、夜半ばかり、風ふきしほもよくなりて、船を發し、にはよく曉方厳島に着ぬ、
(芸藩通志巻百四十六所収)