環藝録

写真でつなぐ広島風物記録

2013-07-01から1ヶ月間の記事一覧

文字抜粋「及」

その看板の「及」の字は「の」の字のように旋回の動きを見せて滑らか。 もちろん大元神社方面への道しるべに見られる「及」のようなまっすぐな線も良い。

大願寺の鹿看板

その小屋に立て掛けられた縦書きの看板。 「門前、及び境内で鹿にえさを与えないで下さい 大願寺」とある。なぜか「与」に振り仮名。 昔は知らず、今では境内の中でも外でも鹿にえさを与えるような状況にはなさそう。

弁天と小松

大願寺境内の川端に「小松内大臣平重盛公御手植松」が観覧に供されている。 実定が「後徳大寺左大臣」で知られるように、「小松内大臣」で重盛として通じる。その重盛が「厳島弁財天の神徳霊験に感服し」参籠した際のお手植松、という由緒を伝える。

徳大寺さん

厳島神社由緒の「社参」で名前の上がった花山院忠雅と徳大寺実定(1139-1192)は治承3年*1の参詣。 それからだいたい七百年後、「内大臣正二位勲一等侯爵徳大寺実則」の奉納の碑が大願寺にある。 *1:1179年

由緒の事項選択

厳島神社社殿入口近くの「厳島神社御由緒」の札はおおよそ五部門で構成される。 御祭神 社殿の創建 御幸 社参 祭儀 「御幸」として「後白河法皇」と「高倉上皇」が、「社参」として「平清盛公」「前太政大臣花山院忠雅公」「徳大寺実定公」「足利義満公」「…

承安四年の御幸

『厳嶋道芝記』の「巻一 本社之部」には「御幸之事」という項があり、厳島神社に上皇の御幸のあったことの史料を挙げている。その筆頭に承安4年の後白河院の例がある。 百錬抄曰承安四年三月十六日法皇建春門院臨幸安芸厳島 四月五日還幸云云 按するに法皇ハ…

行在所の大聖院

弥山の麓、大聖院の由緒の文中には、鳥羽天皇・任助法親王・明治天皇がゆかりの人物として登場する。 明治天皇の厳島神社行幸が明治18年。参道右手の観音堂がその際の「行在所趾」にあたる。安西、ではなくて行在。

大正15年の殿下

弥山山頂には「皇太子殿下御展望跡」の碑がある。登山道の距離「二十四丁」の標示も兼ねる。 この場合は「大正十五年五月二十七日」に登山された皇太子殿下ということで、先帝陛下のこと。

阿品の御降誕奉祝碑

旧廿日市市の範囲での南の端が阿品。 今上陛下御降誕時の昭和8年の頃は地御前村の一部で、地御前村青年団の阿品支部による記念碑が建てられている。三日後の「十二月二十六日」として刻まれている。 左の面には西方の主要駅*1との距離が示され、右の面には東…

峰高公園の行幸啓記念碑

廣田神社から山陽本線を挟んだ丘の上に峰高公園が広がっていて、園内に市のスポーツセンターがある。 平成8年の国民体育大会の際、ここが柔道の会場になったので、天皇陛下の行幸と皇后陛下の行啓があった。 ということの記念碑が翌年2月に建てられている。

平成5年の石の椅子

そんな見晴らしのいい境内だからなのか、石のベンチが2台並んでいる。時刻によっては木陰になりそうな位置。座る向きは社殿の方なのかもしれない。 側面の刻字によって、皇太子殿下御成婚記念として設けられたと知る。いまから二十年前。

廣田神社の高台

階段の上の高台もまた周囲を玉垣が取り巻く。 串戸の市街地を見下ろす南の縁では安全のための柵の役目もある。 一番奥の物置の手前に石柱があり「東方ヨリ抽籤番」と見える。一本ずつ名前が刻まれる玉垣を、どういう順序で配置するかの一つの方法。

石段の金額

参道階段の最初の踊り場の上方に7本の石碑が並んでいる。 向かって左が幅広の碑で、「石段新築記念 氏子中」とある。二本目以降には金額と人名が細い石柱に刻まれている。 「鉄柵一式價格 金弐百弐拾五円」だけが「弐」や「拾」を用いる。3本め以降に「百三…

鉄柵の跡

廿日市の藤掛山に鎮座する廣田神社。 階段の脇には昭和53年寄進の玉垣が並び、石柱同士がパイプでつながって手すりとなっている。 階段中程に木の鳥居があり、その前後の玉垣に昭和10年の白い石が立つ。「鉄柵一式」の奉納とあるので、手すりが一新される際…

大頭神社玉垣

ぐるりとりまく玉垣を奉納するのが、ある地域を単位とした集団だったり、講とか企業とかの団体だったりしたら、入口近くの一番大きな柱に刻まれることになるのだろう、前項の場合。 その集団の個人個人の名前が一本一本の柱に刻まれるのも、またよく目にする…

宮島の中の町名

『宮島町史資料編・石造物』の「広島県内寄進者一覧表」にあるように、地元寄進者の名には「当島」を添えて地元の人であることを示す例が多い。 一方、宮島あるいは当町内の地名を刻する石造物は非常に少ない。(略)あえて宮島ないしは厳島の地名を記すこと…

厳島町時代の出来事

明治22年から昭和25年までが「佐伯郡厳島町」*1。 明治44年の厳島神社の社格昇格を祝う注連柱に「厳島町」とあり、地御前神社の石鳥居にも「厳島町」の人が名を連ねる。 大正12年に厳島が史蹟及名勝に指定される。昭和6年に文部省による碑が立ち、参道入口で…

宮島の寄進者

地元の人の寄進した石造物には、その名前の頭に「當村」「當町」などが添えられる。 「厳島町」(のちに宮島町)となる前の厳島の場合、「當島」が使われる。 『宮島町史資料編・石造物』*1のP149「広島県内寄進者一覧表」を見ると、宮島の寄進者による石造…

大歳神社の注連柱

大歳神社の注連柱も同じく大正2年で、地御前神社の狛犬などと同じ人物による奉納。地元村民ということで「當村」。 ここでは「敬神」「尊皇」の二字句ずつが大きく刻まれている。下に余白をたっぷりもちつつ長く延びる「神」の文字。

寺内正毅「皇威輝八紘」碑

拝殿の西隣にある円柱型の碑も、同じく大正2年の建立。 大きく「皇威輝八紘」と刻まれ、「陸軍大将伯爵寺内正毅書」で、側面に「大正二年十一月建之地御前村」とある。台座や柵やら石やらで、離れた位置から眺めてもくっきりと見える。 横浜市 泉区 戦没者慰…

摂社の地御前神社

昭和12年の「地御前村経済更生計画書」*1の「六、神社仏閣」に地御前神社の項があり、近い時期の出来事として拝殿の再建が大正4年にあったことが記される。 それ以前の拝殿は「明治二十四年暴風雨ノ為メニ転覆ス」とあり、その際に由緒を証す文書なども失わ…

地御前の石燈籠

廿日市市地御前の今市稲荷神社には、文政8年(乙酉)の石燈籠が残っている。右の方の火袋はセメントで補修され、左の方の火袋は新しめの石に替わっている。どちらを選ぶ。 地御前神社では、鳥居*1の傍らに大正2年の石燈籠がある。 外側にある火袋を失った石…

大正三年の石

その恵比須神社の境内には、手水鉢以外にも大正三年の奉納物として鳥居と燈籠が残っている。 こざっぱりした鳥居はともかく、石燈籠のほうは積み重ねられた石が針金で括りつけられていて年季を感じさせる。わび錆。 燈籠の台座には、奉納者の「伜」の名が8人…

中店の恵比須

「海田市は、この神社を中心として、上市・中市・下市の町名が出来るなど、」と、西国街道の宿場「海田市」の中心部に祀られた恵比須神社。現在の住居表示でいうと「海田町中店」。街道に沿って西から「新町」「稲荷町」「中店」「上市」という町名。西隣の…

墨の抜け方

四本の注連柱のうち、墨が鮮やかなのは一本だけとはいえ、ほかの刻字にも墨の跡が残っていたりする。 一つの面に数行にわたるような小さな字ともなると、墨の残る線と残らない線でまだらになる。 玉垣のうち、外に面した角の近くは個人名ではなく、「新町」…

四字句が二対

境内への入口が二箇所あり、どちらも車止めのポールを2本置くくらいの余裕ある幅。 正面入口には「神徳洪大」「民福無窮」の注連柱が立つ。 川を背にした金毘羅さんの石燈籠にも注連柱が構えていて、こちらの語句は「神治洪大」「民福無疆」。入口のものとほ…

明神町の厳島神社

その明神町の川沿いの道をまっすぐ河口に向かって進むと、つきあたりに厳島神社(厳島明神)が正面を向けている。海を背にした向き、ではあるけれど埋立地の先端はまだまだ数百メートル先にある。 三角形の境内地ところどころに木々が立つほかは、地面や石材…

明神公園

瀬野川河口部南岸が「明神町」で、街区のほとんどは工場。 街区の北東角にある公園が「明神公園」。ウォーキングコースの起点になっている。*1川に近い方がグラウンドで、遊具があるのが南半分。 この時期は樹木も草も青々と茂っていて、さらにトンネルつき…

公園の五箇条

海田町内の公園には共通して「ここは良い子の遊び場です みんな仲良く遊びましょう」と書かれた注意書きがある。 「成本公園」や「観音免公園」など、公園の名前が上部に付き、注意書きは5項目の箇条書き。 さきに見た堀川町の公園の場合、フェンスに取り付…

公園の赤い線

海田新橋のすぐ上手には明神橋。橋と橋の間が堀川町で、堤防上の小さな空間がちびっこ広場になっている。 海田新橋の赤い橋桁が公園の背景になり、遊具にもそれぞれ赤い塗装が施され、フェンスに掲示された注意書きも赤で囲まれる。その色のおかげで草むらに…