環藝録

写真でつなぐ広島風物記録

2013-05-01から1ヶ月間の記事一覧

港の鳥と高低

港の奥には砂浜がわずかにあり、道路の高さまで石垣と消波ブロックがそびえる。 北から突き出た防波堤も消波ブロックの塊で、土台の石は一段分ほど残して緑色。水際でうろうろする鷺。 南からはコンクリートの防波堤が垂直な壁をつくる。鷺は水際から離れた…

海越

海越の集落は西の海に面した港がある。南北に通る県道35号が倉橋中心部と鹿老渡・鹿島方面とを結ぶ。バス停は北から「海越口」「海越」「南海越」という並び。*1 map:x132.549156y34.088563:hybrid:w450 港湾設備のある海越中心部は、南北にある小さな岬で挟…

跡地と農道の整備

IX 海越地区 農地保全整備事業 のページによると、平成元年から15年度の事業として、排水設備(排水路と承水路)を設けてみかん畑の侵食防止とし、「水路兼用農道」(承兼農道)を設けて営農条件の改善が図られた。 銅像台座奥に小さな碑があり、「200…

跡地の台座

呉市倉橋町の南東部、海越小学校跡地が県道沿いに土の空き地としてある(のを、22年に見かけた)。 山へ向かう道路の近くの木々に覆われるようにして「二宮尊徳先生幼時之像」の台座がある。足の一部がくっついて残っていた。

児童の運動場

その衝立のような塀には「金比羅山公園」とあり、入口脇の壁には「呉市金比羅山 兒童運動場」とある。その他略称で書かれたりもする。 「児童」を冠するにせよしないにせよ、先に見た注意書きや、木の杭に「遊具は皆んなで(下略)」など、公園内で遊ぶ児童…

公園入口の○△□

大歳神社(と金比羅神社)への参道の途中に金比羅山公園がある。地蔵堂が目印になる。 入口を見上げてすぐ立ちはだかるは、飛び出し防止の大きな塀。意匠として○△□の穴がある。 はてなハイクのお題に「○→△→□を繰り返す」があるけれども*1、模様の一部に三角…

金比羅山公園の子規句碑

明治28年に子規が呉港を詠んだ句が一行。黒地に白い字。 呉港 大船や波あたヽかに鴎浮く 子規 斜面の方が背面で、昭和43年に呉みなと郷土会が生誕百年記念に建立した旨書いてある。「春雨にけむる川原石に来航」という点でゆかりの場所に近いことが示される…

城山の金比羅山公園

「有崎城址からの眺め」*1は呉港の北西に位置する城山の先端。 大歳神社を上段部とすると、中段部には「金比羅山児童公園」があり、真下に呉市海岸1丁目を眺める位置に子規句碑がある。 急傾斜地なのでフェンスと鉄線で囲まれていて、下のような注意書きもあ…

赤崎神社の位置

map:x132.566905y34.233109:hybrid:w450休山の西斜面に位置する室瀬町は、西に宮原と呉港を見下ろす高さにあり、頌徳碑は斜面を背にして立つ。 碑の傍らには「一斉の汽笛港の去年今年 房子」との句碑もある。 神社のすぐ下の段には児童公園がある。白い柱に…

池田勇人の「碑」

「池田勇人書」での「碑」の字は、「石」の一画目と二画目が連続して鋭い払いになる。*1 呉港を見下ろす高台の、呉市室瀬にある赤崎神社。その境内に立つのが「高橋兼吉翁之頌徳碑」(昭和33年)。 呉製砥所(昭和40年からクレトイシ)の初代社長。 クレトイ…

天野雨石の「石」

呉市天応の田中八幡神社参道入口近くにある「道路改修記念碑」(昭和12年)。題字の脇に「正五位天野雨石題」とある。 安芸区中野の「水害記念碑」*1の場合、題字が篆書なので、楷書で書かれた本人の名前の字とは当然形が違う。 この道路改修記念碑の場合は…

「賞」の字の書かれ方

同じく呉市内、堺川沿いの道にも「手づくり郷土賞」のプレートがあり、こちらは「街灯のある街角三十選」の一つ。 「建設大臣 綿貫民輔書」とあるように、当時の大臣の揮毫がここでは上二行に及ぶ。近年でも政治家の字の巧拙の話題で目にした覚えのある筆跡。…

道の賞

美術館通り 美術館入口近くに「美術館通り」と刻まれた幅広の石碑がある。命名と同年に受賞した「手づくり郷土賞(ふれあいの並木道)」と「日本の道100選」のプレートが石碑の上部に納まっている。受賞の記念となるモニュメントの置き場所次第では、余計…

美術館通り

亀山神社の故地は現在の入船山記念館(旧呉鎮守府司令長官官舎)。 敷地内の南辺には呉市立美術館があるので、それと別館の間にある坂道は「美術館通り」。広い歩道には街路樹と並木と、点々と置かれた彫刻が出迎える。おおむね歩行者の方を向きつつ。

参道が坂道

亀山神社の階段の下はさらに坂道が続く。坂道の入口には浅野長勲揮毫の注連柱*1。 強い傾斜の坂道。周りは民家で道の脇に所々並木が仕切りになる。 白い道を横切る白い猫。尾も白い。 関連 横切る猫 http://d.hatena.ne.jp/kanototori/20101226/1293384280 *…

階段の下の一対

呉市の亀山神社の場合、狛犬はいくつかの対が適度な距離で配置されている。 階段の上の参道脇では、積み重ねた台座の上である程度の高さで見下ろす。 階段の下、広い坂道の終わりで迎える狛犬は、小さな台座の上で小振りな体を正面に向けている。隣の社号碑…

顔の高い姿勢

福山市の福山八幡宮では広い階段の外側に狛犬がいる。 前脚にも後脚にももたれかかる玉などは無いので、まっすぐに前脚を伸ばした姿勢でこちらを見下ろす。 すぐ近くの艮神社でも同じような姿勢で腕を伸ばす。参道の幅が狭い部分なので、太めの体と顔がより…

二対の玉

それをよく見ると、手前に綱の垂れている形と、玉を縁取る鈴のような形。 賽銭箱近くのそれらとは別に、鳥居と注連柱の近くにももう一対の狛犬。台座に大正の「御大典紀念」や「還暦紀念」と見える。 後ろ足を何かに乗せるでもないけれど、同じように腰を高…

雪の残り

石畳の参道のが拝殿前まであり、参道両脇には石燈籠と狛犬が置かれている。狛犬は後ろ足を玉に載せているタイプ。 賽銭箱脇の柱に「雪ずり注意」とあるように、軒先に落ちた雪が溜まっている。参道に落ちたぶんもかき集めた後だろうか*1。左側が杉の木の陰の…

知波夜比古神社

広島県三次市 文化財 のページに指定文化財の一覧表がある。同じ三次市高杉町383番地他にあるということで、高杉城址と知波夜比古神社はおなじマスにある。国とか県とか市町村とか、指定種別に分けられたりすると探しにくかったり読みにくかったりするし。 …

高杉城跡の説明板

知波夜比古神社参道脇に「県史跡 高杉城跡」の説明板がある。県史跡への指定は昭和59年で、広島県教委と三次市教委によるこの説明板は昭和63年3月。傍らに立つ石柱も同じく昭和63年。 城郭の遺構についての説明のほか、毛利氏との合戦後に再建された神社(市…

高杉城から500m

みよし風土記の丘の新北口近く(浄楽寺古墳群)、舗装された道に突き出た部分に宝篋印塔が立っている。細い水路を挟んだ向かいに5基の石塔もある。 塔に上がる階段が南側にあり、そこから見える石碑の面には「高杉城主祝甲斐守墳墓」とある。 真下の道路から見…

高架の奥の千人塚

廿日市市大野の市街地から大頭神社へ向かう道の途中、赤い鳥居の先で交差する広島岩国道路。 その先の畑の奥に石塔四基と土盛りが石で区切られている。石碑には「長州戦争史跡 千人塚」。場所の名をとって「滝ノ下千人塚」。大野村では慶応2年の6月19日と25…

積石塚と遊歩道

塀に囲まれた吉川氏墓所の隣に海応寺跡とされる区域があり、さらに川寄りの林中に盛土による古墓がある。木々の間を縫うようにこれらの遺跡を巡る遊歩道。吉川元春館跡の遺構が木陰と無縁なのとは対照的。 新しいほうの立て札には「古墓」とあり、盛土を囲む…

吉川元春と元長の墓

吉川元春館跡(海応寺跡*1)に接する山林の中に吉川元春と元長の親子の墓所がある。両者とも九州で亡くなった後ここに葬られた。 もう一基の墓を説明板では元春の四男のもの「と言われているがさだかでない」とする。『芸藩通志』では「吉川氏三碑」の項目名…

毛利一族の墓所

洞春寺跡、毛利元就の墓の脇の壇に一族の墓もある。 城内に散財していた墓所が明治2年に集められたもので、(郡山城主としての)初代毛利時親から8代毛利豊元までが「先祖合墓」(大きめの塚)に、個別に設けられた三基の塚が興元・幸松丸・隆元の妻(大内義…

隆元墓所の入口

郡山城跡内にある毛利隆元の墓所は、菩提寺常栄寺の跡の近く。 大通院谷から毛利元就墓所への道筋だと通りすぎてしまうけれど、少年自然の家や清神社方面からの道だと、分かれ道が墓所への参道となってあらわれる。 入口を示す石碑には「毛利隆元公御墓所」…

福原氏墓所の道しるべ

同じく毛利氏家臣の福原氏の場合、毛利と同族なので「大江朝臣」の氏姓を名乗る。大江氏を遡ると阿保親王*1。 てっぺんが尖った石碑に「一文字に三つ星」の紋が打たれ、「福原大江朝臣貞俊公」「福原大江朝臣廣俊公」の墓所までの距離が刻まれている(距離は…

国司氏墓所の説明板

「国司右京亮墓所」の碑には、側面に「昭和四十六年 *1」「吉田町指定」とある。 背後の木の立て札による説明板は、「国司氏墓所」と題しての解説。平成9年の設置。指定時にしても設置時にしても「高田郡吉田町」。ふりがなの空間が十分にとられている。 こ…

国司右京亮墓所

県道29号を吉田から向原へ向かうとき、最初のなだらかな坂の右手(麓側)に玉垣で囲まれた林が見えてくる。 木々の合間に沢山の石塔が積み上げられている。それらとは別に整えられた墓域が区切られ、「國司右京亮墓所」の石柱が立つ。 『芸藩通志』国司*1村…