洞春寺跡、毛利元就の墓の脇の壇に一族の墓もある。 城内に散財していた墓所が明治2年に集められたもので、(郡山城主としての)初代毛利時親から8代毛利豊元までが「先祖合墓」(大きめの塚)に、個別に設けられた三基の塚が興元・幸松丸・隆元の妻(大内義…
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