環藝録

写真でつなぐ広島風物記録

2016-03-01から1ヶ月間の記事一覧

高架の下の広さ

電停の終点前にある広大な広島みなと公園など、地図上の緑は固まりになって存在感を示す*1。実際には元宇品のように公園いっぱいに木々が生い茂っているわけではないので、公園以外のエリアとの色の違いが強調されすぎている。 広島高速3号線が通る高架とそ…

移転で空いたスペース

四方に示される公園が案内図の位置がいかにも宇品海岸全体の中央に位置することがあらわれているけれど、元宇品口電停内にある案内表示では、進行方向と反対にある波止場公園などは載っていない。 過去に同じ案内を見たとき*1から変化があり、「瀬戸内海汽船…

文字も変わらず

造語の場合はどう訳されるのかと思ったら、案内図脇の道しるべ看板の表示にちょうど「宇品デポルトピア」がある。 ハングルも簡体字も英語も表記は変わらず「UJINA-DEP-PORTO-PIA」。「宇品中央賑わいエリア」を訳されても何がある場所なのかは伝わらないか。

案内図の訳語

その「宇品海岸プロムナード案内図」には、日本語の地点名に英字とハングルと簡体字と繁体字が添えられている。「宇品デポルトピア」などは英字のみ。英語とイタリア語の造語の場合、漢字だとどうするのだろう。 案内図のタイトルも訳してある。宇品海岸プロ…

遊歩道を含む地図

「宇品海岸プロムナード」は宇品海岸の桟橋一帯の遊歩道。 東西に長い道なので、その案内図は横長で、南を背にして設置されている。 元宇品口電停にある案内図もプロムナード全体を含む地図だが、宇品島(元宇品)の案内図でもあるので縦長の看板になる。

横長地図の切り取り

そのベンチの背後にある商工案内図。 こちらも街区の描写は直線的だけれど、読める大きさの字の店名をぎっしり載せているので道幅の広狭は二の次。 看板の下三分の一は現在地よりも東の街区を切り取って載せている。海の有効活用。

尾道渡船への道

そのバス停のベンチに載る広告に簡略な地図があり、「尾道渡船」にまっすぐ通じる渡場通りがある。実際には直線ではない。 尾道渡船株式会社以前の名残は「公営渡船」という交差点名にも及ぶ。

渡場通りバス停

宝土寺の下の国道2号にあるバス停は「渡場通り」。海に向かってのびる道の先に桟橋があるため。 名を連ねるバス会社は「鞆鉄」「尾道」「中国」「本四」、とあったが、それらにかぶさるように「おのみちバス」が貼られていた。

町内会図の意匠

東山手東町内会は文学公園と宝土寺周辺の斜面。山の上の方が区域が狭まっているので上の左右に余白がある。 方位盤は右上に、標題と凡例は左上に。 消火栓は赤丸で、消火器具置場は赤い四角の記号で表される。 「国鉄山陽本線」の頃からある案内図。

踏切か地下道か

同所を範囲に含む「東山手東町内会各戸図」では、茶色で表された道路に階段の描写は無いので、踏切と国道の間はY字路の坂道のように見える。 その東にある「現在地」付近の道は踏切ではなく線路の下をくぐっているので、線路の記号か重ねてある。

国道に迫る線路

山陽本線のすぐ下に国道2号がならぶ。 そこへ降りるための階段は東西両方に向く。 階段の入り口にある道しるべは「千光寺」を指す。途中、斜面の町中に他の寺や施設もあるけれど、登山口のようなものと思えば途中経過はすぐそこの視界内。

線路に迫る等高線

同じく急傾斜地崩壊危険区域を示してある「宝土寺下地区」。確かに赤く囲まれている区域は宝土寺正面の参道とその脇の崖。 山陽本線によって階段の線はちぎれているけれど、他の寺の正面も同様に踏み切りやガード下や陸橋によって道は繋がっている。地図上で…

階段の線のある地図

千光寺山の尾根が南に突き出て天守閣的なナニが目印となる駅の裏手。 山も斜面が土堂小学校の西に迫るので「急傾斜地崩壊危険地区」が設定され表示されている。そのための擁壁や民家の石垣や舗装された階段であり。 「うす茶」で表示された道路の部分部分に…

卒業生の色遣い

その道の起点に至るまででは、階段と曲折の多い細く入り組んだ道が市街地をつくる。 要所要所に千光寺山への案内があり、それがないと確かに迷う人が多そう。地元の小学生の卒業制作による案内看板のあれこれの色を使った文字とイラストは、意外と真ん中の指…

擁壁の麓の岩

その「山地災害危険地」対策の擁壁の施された山道の起点はコンクリートではない岩肌から始まる。 山地災害危険地を表示する看板はすっかり地図が見えないが、これから登る道の傾斜が一目瞭然に物語る。 岩に直に書かれていた千光寺山への矢印は看板の下に隠…

昭和60年の擁壁

その看板のすぐそばには、広島県林務部による「山地災害危険地対策事業山腹工事」の銘板が埋め込まれている。年は昭和60年度。年度なら完了は61年か。 さきの看板はその工事より前か後か。

古い看板の最近

海に向かって開けた眺望の坂とはいえ、眼下すぐ近くには民家が迫る。 擁壁に掲示されている古びた鉄板の看板に書かれているのは、「最近、あき缶やビンゴミ類等を民家の方へ投げ、これで負傷した人があります。(略)」という尾道市からのお願い。この設置以降…

擁壁の下の道

千光寺山に登る西側の道は急傾斜の中を巻きつくような階段。 道の山側には排水溝、海側にはガードレールの柵。 傾斜のある道は階段のような坂道のような不安定感。柵や街灯の土台は当然ながら水平の状態で設置されている。

路段の壁も段

千光寺山から三重塔へ下りる道は見晴らしの良い階段。 道の横、下の斜面との柵になるブロック塀も階段状に下がっていく。道の段数とは対応せず、すこし長めの塀が段を成す斜めにまっすぐ、は作りにくいかも。

壇の側面

それが6段と分かるのは、ブロックを横から見ないといけないので、こういう見え方になる。 奥行きを出すためか、壇一つにつき手前と奥の二列の配置となっている。横から見ると短辺を向けている列に「平成十三年三月…」の記銘がある。ブロックの凹みに埋められ…

仏の六段

西郷寺境内で石仏や石塔を集めて整列させている場所はコンクリートブロックでできたひな壇。雛ではないが、最前列に卵塔の塔身などの石仏以外の物を据えてあるのが雛人形の調度品と重なる。

江から郷へ

現在は「西郷寺」の表記の寺号は、もとは「西江寺」だった。 「西江寺」でweb検索するともっぱら箕面の聖天宮関連のページばかり。 境内には昔の表記で刻まれた石柱もある。

尼寺な説明

芸藩通志に 相伝ふ、大一房は、當國相方城主の室人なりしが、尼となり此地に住す、延文貞治の際、此寺の傍に、尼寺十二宇を建つ、正徳年間までは、慶徳庵、珠松庵、松寮、本寮、西寮といふを存せしが、後悉く廃す とあって、城主夫人や尼僧のことが記録され…

山門と説明板

尾道の西郷寺は市街地の東部、東久保町の丘の上に位置する。 貞治年間の建立という山門は重要文化財。門の脇の説明板は、発願した「大一房」を備後相方城主の夫人という一説を紹介いている。「その確かさがどのくらいかはわからないけれど、紹介したいと思う…

高架で区切られる寺

賢忠寺と同じように、西隣の浄土宗洞林寺も鉄道敷設によって南北に境内地がわかれている。 水野家墓所に面した入口に「旧福山藩主 水野家母公之墓所」の石柱があるが、墓地のあるのは高架の南側。

高架で区切られる町名

のちに山陽本線となる鉄道が敷設されることで、賢忠寺などのある「寺町」が南北で分割された。 現在の街区では南に「旭町」「寺町」「東町」と続き、高架の北には「若松町」「東町」が並んでいる。水野家墓所は若松町。

藩主の子の墓

その隣に二基並ぶ五輪塔は水野勝成の三男成貞と五男勝則の墓。 それを説明する石柱には側面に戒名が載っている。さらにもう一行、成貞は「旗本 水野十郎左衛門父」とあり、勝則は「結城水野藩家老 水野平内福富*1祖父」とある。著名人が子孫にいると、「藩主…

賢忠大居士の墓碑

曹洞宗賢忠寺は初代藩主水野勝成の父忠重の菩提寺として建てられた。 同所にいくつも並ぶ五輪塔の中で、一基違う形の板状の墓石に「賢忠大居士□」とわかりやすい。

五輪塔の笠

その水野家墓所には多数の五輪塔が墓石となっている。下から「地」「水」「火」「風」「空」の字が刻まれているものが多く、梵字は見られずもっぱら漢字。 これらの笠石の角もまた上向きにはね上って側面を平たくしている。「火」の字が乗る面は窪んだような…

水野家墓所の灯籠

上の写真も沼名前神社境内。灯籠の角が細く尖っていると欠けやすくていかにも「触らないでください」と札がぶら下がりそうな危うさ。 福山市若松町、水野家墓所内のあちこちに立つ灯篭はどれも笠の縁の角(蕨手)が太く上がっていていかにも頑丈そう。 笠のフ…