上甲立村の「国郡志御用ニ付下調べ書出帳」(文政三年完成)*1は、この冷たい湧き水をこうあらわした。
甚だ冷泉にて夏日川魚相はなち候へば忽ち身を返し一向いきおよぎ得申さず候
それをもとにした『芸藩通志』巻六十七も同様の文で、
夏日、魚を放てば、身をかへして、躍ることを得ずといへり、
となる。
これが徳山から訪れた末兼忠彰「弔古誌」(文化十二年訪問、文政二年執筆)*2では、
夏日魚ヲ入レハ忽チ死ル也ト
となる。実際に魚を放ってみたのではなく、水の冷たさの表現としてもっとも気安い説明を受けたのだろう。末兼氏が宍戸氏の子孫ということもあってか、それとも通志のほうが気取っているのか。