環藝録

写真でつなぐ広島風物記録

近代の御年代古墳

古墳の発見は明治28年。付近の国道改修工事の際に開口した。
「馬具類、須恵器などが出土しているが、出土の状況は明らかでない」(『本郷町史』第1章原始・古代)とあるように、工事中に偶然見つかったもので明治の早い時期ということもあって、即座に詳しい調査には至らず。とりあえず破壊されることはなく古墳の存在が知れ渡る。

重田定一「安藝の古墳」(『考古界』第4編第9号.明治38年*1雑録)によって、石室と石棺の図が紹介された。それ以前に『再版 古墳横穴地名表』に、

南方村小字尾原御年代山 祝部拾一 東京帝室博物館
南方村 石棺 諸陵寮

と記載されていたことから、その確認に赴いている。

入口には柵の如きものを設け、注連縄を張り、甚だ神聖に保存したり。張札に、
 明治三十年五月十八日廣島縣知事淺田徳則氏來覽ノ節ニ於テ示教アリ依テ此庇扃ヲ新ニ造作ス
とあるのみならず、後方石棺の上には、白幣を立て、神主やうのものを置きて、その表には、
 沼田庄梨羽郷 御年代山二神靈安鎭祭典策
と題し(略)

県知事の示教がどの程度の内容を含んだものか。ともかく神聖な墓所を保護するために「庇(ひさし)」や「扃(とびら)」といった設備で囲われるようになり、二つの石棺があることから「二神」が祀られることとなる。
そして現代、「御年代古墳」の画像検索で見られる石棺の写真には、上のように小皿のみであったり、榊が立てられている状態であったりする。

*1:1906年