本地村 以下十九村を、古保利庄と稱す、當村は倭名抄所載品治是なり、今郡本にて、石見往還の驛所なり、(略)
『藝藩通志』巻五十八 安藝國山縣郡二
というわけで近世には、石見往還(広島石見間の街道で、本地・有田・蔵迫・新庄・大朝を経由)の駅の置かれた「本地」が山縣郡の中心の役割を果たした。
右和名抄ニ載処の郷名ハ、往古品牟智別王出雲国に下給ひし時、其往来し給ひし国々に御名をのこし給わんために、品遅部を定給ふとかや、
本地村「国郡志御用ニ付下しらへ書出帖」『千代田町史近世資料編上巻』
と、村からの報告の際にすでに古代の品地郷のことは言及があり、『山縣郡本地村猿の国郡志』*1が別途編まれ、品地をはじめとする古代地名がさらに詳細に考証されている。