環藝録

写真でつなぐ広島風物記録

2009-09-01から1ヶ月間の記事一覧

ささやき橋

隣接しているので「山中鹿之介首塚」と「ささやき橋」は同じ石に示されている。 舗装された道路が静観寺の門前で折れ曲がる所。小さな欄干に「さゝやき橋」。 そこの説明板に「ささやき橋伝説」として 応神天皇の頃、百済よりの使節の接待役・武内臣和多利と…

方位を示す石

圓鍔勝三制作の宮城道雄像が広場中央の高まりにあり、東を向いて坐している。 その脇に配置された石には周囲の史跡の名が方向とともに刻まれている。 北に備後安国寺、北西に沼名前神社と法宣寺と山中鹿之介首塚、南西に医王寺、南東に対潮楼と円福寺、東に…

オブジェとしての刻印石垣

本丸跡広場の北縁に稲荷神社と石垣が並ぶ。 鞆城跡の説明板の背後に配置された石のうち、最前面にとくに刻印が見える。

城山東南隅

東南の麓から眺めると、斜面は現代の石垣でがっちり固められている。 その上の折れ曲がった階段を通って頂上の歴史民俗資料館に至る。 途中で白い説明板があり、その周りの石垣は近世初期(福島正則の時代に破却)の鞆城跡のものであり、昭和61年の発掘調査で…

城山の西

鞆の町並に囲まれた城山は、西側が緩やかで残りは急傾斜地となっている。 西側の平坦面が公園になっており、町の奥に連なる山並みと向かい合う。 南西に医王寺・北西に沼名前神社が見える。

公園のブランコ

三入第三公園のブランコは、左右に槍を持つ腕から四つ垂れている人型の柱。 例えば鞆城跡の公園も四つ並んだブランコの真ん中に支柱が必要。 使わせないときにはブランコ同士を絡ませたりするが、三つくらいならひと括りにできるっぽい(例:宮島町)。

横川

横川橋から南原川の川下を見ると、目の前が高松山の麓で、根の谷川との合流地点となっている。 map:x132.517433y34.529081:hybrid:w450 「横」のつく地名は、対象となる地形の向きが特徴的であると判断されるときに名づけられる。 ヨコイ 横堰(川をとめて水…

横川橋

旧国道54号(石州街道)が南原川を渡る橋が「横川橋」。 北側に漢字の、南側に平仮名の橋名が記されている。 古めかしい欄干とは対照的に(だからこそというか)、路上の赤が目立つ。 橋脚のコンクリートに新旧の色が見え、鉄板にも包まれて強度を高める。

土居に渡る橋

土居屋敷跡と観音寺跡を結ぶ橋が「本土居橋*1」。車は通れない幅。 「本」というからにはその南の「土居橋」よりも土居に近い位置にあるということか。 「土居橋」のほうは車がすれ違える車道橋と、下流側に「土居歩道橋」もある。 土居橋をまっすぐ西に進む…

土居屋敷跡

map:x132.521403y34.532616:satellite:w450 観音寺跡から根の谷川をはさんで南にある、県史跡の土居屋敷跡。 指定は昭和45年1月30日で、説明板が昭和52年3月1日の設置となる。当時は「広島市可部町大字下町屋字土居」と表示される。現在の安佐北区三入南一丁…

観音寺跡の墓所

説明板から。 観音堂南側の墓所には40基余りの古い五輪塔・宝篋印塔がある。熊谷氏代々の墓と伝えているが、形が崩れてはっきりしない。しかし、慶長五年(1600年)熊谷氏の主流が毛利氏に従って萩へ移ってからも、度々家臣を墓参させていたという。 主流が…

観音寺の現代

観音堂の正面に架けられている額に「まいらじと たのみは 三入の 観音寺 老いも若きも うけよ 惠みを」。昭和29年の奉納。戦後、「廣島新四国八拾八箇所」*1が設定されることで、三入地域だけでなく広島市近郊からの巡拝者を対象にすることとなる。 入口近く…

正法山観音寺跡

観音堂の正面右手に昭和52年設置の県史跡の説明板が立っている。県史跡の指定は昭和26年。 熊谷氏の一族の菩提所観音寺は、かって大内義隆が宿泊したこともある大寺であったが、天正19年(1591年)熊谷氏が広島城下に移ってからは次第にさびれ、今では巨石で築…

観音寺山の麓

安佐北区三入一丁目の熊谷氏菩提所観音寺跡。 境内に「清泉」と書かれた湧き水があり、県史跡の説明板に また、境内の井戸は、有田合戦で討死した熊谷元直の腕を、彼の妻が洗い清めたという言い伝えがある。 とある。 菁文社の『げいびグラフ』平成21年夏号…

白水山勝福寺

map:x132.45851y34.449715:hybrid:w450 武田山の山裾、安佐南区祇園五丁目の白水観音堂。 昔の南下安村で、北隣の大町村の境に近い。現在では北の丘陵は祇園北高校に、西隣の丘陵は広島経済大学になっている。 山林を背後にして観音堂と鐘楼が見え、登る途中…