環藝録

写真でつなぐ広島風物記録

2013-02-01から1ヶ月間の記事一覧

御幸の杜

郷土資料館の南には分譲地「宇品グリーンアヴェニュー御幸の杜」が広がる。南北に長い街区で、宇品御幸2丁目が南に出っ張っているような形。 そこに出店したスーパーマーケットのスパークは当然ながら店舗名も「御幸の杜店」。(上の更地状態の画像が平成22…

去年と一昨年の周年

郷土資料館の建物は明治44年に建てられた。 なので百周年となった一昨年、平成23年に企画展「旧宇品陸軍糧秣支廠100年」が開催された。 資料館建物今昔 のページで「竣工時の庁舎と缶詰工場(明治44年)」と「広島市郷土資料館に改装される以前(1983…

郷土資料館南側の説明板

(略)北側にある公園内には、構造・工法ともに当時のもっとも進んだ技術で造られた高さ3.7mの鋼製煙突の一部も保存している という言及があるのは、郷土資料館入り口近くにある昭和60年5月設置の説明板。文化財としての「旧陸軍糧秣支廠建物」についての説…

グラウンドと煙突の間

宇品西公園の東側がグラウンドで、当然ながら周囲はネットが取り巻いている。 公園内の道を挟んで向かいにある煙突(糧秣支廠の痕跡)は金網に囲まれ、さらに周りに茂る木々。公園の西は住宅と隣接。 食肉処理場の説明板と同じように、煙突を背にして注意書…

宇品西公園とその北

宇品御幸2丁目の北西隅が宇品西公園で、陸軍糧秣支廠の缶詰工場の敷地だった所。建物の一部が公園南側の広島市郷土資料館として使われている。 資料館建物以外に残されている煙突はグラウンドの西にある。煙突のそばに立っている説明板は、煙突そのものの説…

宇品の諸企業

その芳名板の最上段には「カルビー(株)」と見える。前後の狛犬に挟まれた石柱も「カルビー製菓株式会社」の奉納。 会社情報:沿革 | カルビー株式会社 会社の沿革の頁を見ると、「松尾糧食工業(株)」から「カルビー製菓(株)」に社名変更したのが「195…

芳名碑のてっぺん

参道脇で前脚をすっくと伸ばして顔を上げる狛犬の対。その奥外側には記念碑や焼却炉が並ぶ。 背が高く全面の広い石碑は「遷座五十周年記念」の芳名板。その面に載せきれないほどの人名や企業名がならび、台座には役員や総代の名前。 碑のてっぺんには右横書…

文字抜粋「神田」

当然ながら神田神社境内にはいろいろな碑に「神田神社」の字が見られる。松を背にしての社号碑「宇品町総鎮守神田神社」は特に大きな太い字で彫りが深い。ずっしりと構えつつも滑らかに連なる10文字。田の中はメの形。 石鳥居の額の「神田神社」は細い線でお…

うっすらと通りの名

入口近くの玉垣を見ると、くっきり見える奉納者の名の右頭に、さきの碑にあったような「通り」の名がうっすらと見える。 左は一番見やすく「本通六丁目」宇品町の中の本通らしい。隣に「神田通?丁目」、隣はほぼ読めず、右端には「春日通六丁目」。現在の街…

宇品の神田神社

宇品御幸4丁目の神田神社は、明治前期まで牛田村の神田に鎮座していた。 (略) 明治二十二年(一八八九)神領地は旧陸軍省の用地となり、神田神社は当時千田貞暁が埋立てた新開地である宇品へ移転した。宇品の住民は神田神社の奉遷を心から祝って最初に出来…

「神田」の広がり

もとの「神田」の意味が、「神社の費用を弁ずるために設けられた田」*1という、とある耕地の一区域から始まったとすると、それが集落の名になり神社そのものの名になりというふうに、本来指し示す面以外の場所をひとくくりに表すのに便利な拡大しやすい言葉…

牛田の町内

「牛田」を冠する現在の住居表示(牛田本町・牛田新町・牛田中・牛田東・牛田南・牛田旭・牛田早稲田)が施行されたのは昭和45年。昭和50年の芳名板(牛田早稲田の境内社)に現在と同様の町名が並ぶ。この場合は「牛田」の冠称は略して差し支えない。*1 『牛…

神田川の橋

などと、『通志』で「神田橋」ではなく「牛田橋」が見出し語になっている理由を付けてみたものの、京橋川と猿猴川の分岐点までの区間を「神田川」と呼んでいたのであれば*1、どちらの橋名で構わないことになるか。「牛田に渡る唯一(当時)の橋」の意か、「…

神田橋(牛田橋)

牛田橋 一名神田橋、もと一本木二股の邊に在、直に神田八幡宮への路に出、水勢支へかたきを以、今地に移す、長六十間 『藝藩通志』巻七 安藝國廣島府ニ 橋梁津渡 とあるように、白島の北端近くの「一本木」*1から牛田村の「神田」へと渡る「神田橋」が、流さ…

京橋川沿いのバス停

牛田の市街地の中を抜ける路線バスでは、バス停が「牛田本町1丁目」「牛田本町」「牛田本町6丁目」と続くのが紛らわしそうだけれど、これらを三連続で停まる路線だけではないならあまり意識されることもないか。 牛田大橋の北詰には「牛田大橋」バス停が二箇…

京橋川の牛田大橋

牛田大橋は市内中心部から牛田の町への玄関口にあたり、下流側にある「神田橋」よりも大きな幹線道路。 親柱が末広がりに湾曲した面なので、それに取り付けられた橋名板も反っている。ということよりも、地が青く塗られていて読み取りにくい。 「京橋川」の…

牛田本町のバス停

山の上や麓の牛田早稲田や牛田旭に対して、京橋川に面した低地部分を範囲とするのが「牛田本町」一丁目*1から六丁目で、多方面からのバス路線の行き交う幹線道路に囲まれている。南北に長いので「牛田本町6丁目」「牛田本町」「牛田本町1丁目」と連続する。 …

牛田旭バス停

牛田旭と牛田中の境界をなす商店街の通りも参道に含めるとすると、牛田大橋を渡って白島通りも含めて長大な門前町に見えないこともない。見えないけど。 牛田旭バス停はそんな大通りの最奥部にあるので、「牛田ほおずき祭」の際には路線バスがそこまで入って…

牛田旭の石灯籠

『牛田町誌』の25ページには、「塚部(つかなべ)の灯ろう」「早稲田神社前」「椎木(しいのき)にあった灯ろう」の三基の石灯籠の写真が載っている。 何れも弘化5年に早稲田神社の氏子による奉納。社号碑近くのものは「奉獻」、牛田旭のショッピングセンタ…

もと二又土手の石灯籠

早稲田神社境内にある、笠の広い石灯籠には、竿の表に「奉獻」、側面に「椎木連中」とある。けれどあまり目立つ刻字ではない。 由緒 此の石灯籠は、弘化5年二股土手の常夜灯として串(現南二丁目)の人々により土手に建立されたものであるが、昭和56年河川改…

二又川沿いの道

北北東へ遡る川沿いの道を牛田聖天への参詣道とすると、途中、北から合流する川筋は牛田早稲田神社への参詣道となる。 牛田早稲田神社の案内図には牛田旭からの道と、「二又土手」からの道も示される。牛田旭の方が最寄りのバス停で、二又川の分岐点付近には…

牛田聖天への土手道

二又橋のすぐ上手*1、草の生い茂る土手に隠れそうになるガードレールの外に「牛田聖天参詣道」の碑がある。龍蔵院境内の歓喜天のこと。*2 二又川の上流に向かって矢印もある。刻字部分が白くしてあるのでどうにか読める。 川の上流で二股に分かれた先は、牛…

二又橋

二又川が京橋川に注ぐところの間近には「二又橋」が架かっている。櫻橋の方よりは狭い道路ながら路線バスも通る。川沿いの歩道は橋の上流側「二又橋交差点」で途切れるので、橋の歩行は注意。 おそらく現在の舗装よりも前からあるコンクリートの欄干はとても…

二又川の櫻橋

二葉山の北麓が「牛田南」で、谷筋を流れる「二又川」を境にして「牛田本町」「牛田中」「牛田早稲田」と接している。 二又川に架かる「櫻橋」は道路の幅の広さの割に川幅が狭いので、川の真ん中に川幅より長い横断歩道が一本。 上流側に隣接して「桜橋水管…

文字抜粋「櫻」

そんなふうに、「櫻の馬場」と刻まれる字の大きさが小さくても省略でない「櫻」だったりする。下の画像は牛田の「櫻橋」。木偏のハネを含めて安定感がある。 すでに見たところでは、五日市の「被爆2世桜」碑*1で「桜」の「ツ」部分が装飾されていたりするの…

元桜馬場参道の碑

区画整理事業の始まる前の、普通のアスファルト舗装道路の傍らに、ひっそりと埋もれかけていた「交通安全」の碑。明治百年記念*1として「二葉ノ里國鉄町内会」によって「献備」。 埋もれて隠れていた根元部分が露わになり、刻字も墨がついてよく目立つように…

広島東照宮前の道

東照宮の前を横切る道や金光稲荷の参道は「二葉の里歴史の散歩道」の道筋に含まれる。 案内図中に寺社の門と門の間の距離が示してあり、東照宮・尾長天満宮間は700m、二葉山を登って金光稲荷・平和塔を経由すると1450m。 地図中では、広島駅の新幹線口からそ…

65周年の文学碑

その原爆慰霊碑の奥には、参道の方を向いた新しい碑がある。平成22年建立の「原爆六十五周年追憶碑」。 正面右半分に原民喜の「コハ今後生キノビテコノ有様ヲ ツタヘヨト天ノ命ナランカ」(前市長揮毫)。左下にその語句の英訳。左上に「原爆被災時のノート…