環藝録

写真でつなぐ広島風物記録

十八町

明治時代、廃止された可部峠に替わる浜田への道路ができた。可部から西へ飯室・鈴張方面を通る現在の国道261号。可部から飯室までは261号と191号が重複している。
前項の国道54号と191号の交差点の位置からではなく、その東の旧国道の丁字路からスタートする直線道路を称して「十八町」。1町が約109.09m。18町でだいたい2km。大体で。
電子国土から地形図を示すとこのように、東西にまっすぐ伸びる国道。又はこちらのリンク先。

乗合いバスから見た昭和初期の沿道の風景についてこのように描写されている。

左手に亀山小学校があって、福王寺さんの山麓に転々と家が並んでいる。二階建てで洋風の離室を持った家も見当る。アメリカ帰りのお金持ちの家でもあろうか、都会的風情を感じさせていた。ここから少し可部に近づくと左手に小さな丘が見えてくる。丘の上にはお稲荷さんが祭ってあって船山と呼ばれている。(略)バスの通る道端に人家はほとんどない、田圃と畑が広々と行儀よく並んでいるのである。鈴張は深い谷間の集落で、田圃も畑も石を積み上げた大小複雑に入り組んだ段々畠になっているので、大毛寺から可部の上市の間に展開する田畑は、広々という感じを与えたのであろう。(略)
 十八町の中間地点に至ると、左手に福王寺さんへの参道口を示す大きな御影石の石柱が並立していて、草体なので何という漢字かはわからないながら立派で大きな刻字が印象に残っている。石柱の両側には数軒の雑貨屋らしい商店があった。(略)
横山邦治「私にとっての"可部"」『可部の歴史と文化』広島文教女子大学地域文化研究所 1996

現在の地図を見てみると、川と交差した東に小学校が、標高60mの小山に神社の記号、その東の老人ホームの記号から坂を下ったところに石柱(真言宗の「護」を参照)がある。
その合間合間の田畑は住宅地や商業用地に様変わり。
小学校の表の陸橋から東を眺めると下の写真のように見えている。