環藝録

写真でつなぐ広島風物記録

遺跡

毛利一族の墓所

洞春寺跡、毛利元就の墓の脇の壇に一族の墓もある。 城内に散財していた墓所が明治2年に集められたもので、(郡山城主としての)初代毛利時親から8代毛利豊元までが「先祖合墓」(大きめの塚)に、個別に設けられた三基の塚が興元・幸松丸・隆元の妻(大内義…

隆元墓所の入口

郡山城跡内にある毛利隆元の墓所は、菩提寺常栄寺の跡の近く。 大通院谷から毛利元就墓所への道筋だと通りすぎてしまうけれど、少年自然の家や清神社方面からの道だと、分かれ道が墓所への参道となってあらわれる。 入口を示す石碑には「毛利隆元公御墓所」…

福原氏墓所の道しるべ

同じく毛利氏家臣の福原氏の場合、毛利と同族なので「大江朝臣」の氏姓を名乗る。大江氏を遡ると阿保親王*1。 てっぺんが尖った石碑に「一文字に三つ星」の紋が打たれ、「福原大江朝臣貞俊公」「福原大江朝臣廣俊公」の墓所までの距離が刻まれている(距離は…

国司氏墓所の説明板

「国司右京亮墓所」の碑には、側面に「昭和四十六年 *1」「吉田町指定」とある。 背後の木の立て札による説明板は、「国司氏墓所」と題しての解説。平成9年の設置。指定時にしても設置時にしても「高田郡吉田町」。ふりがなの空間が十分にとられている。 こ…

国司右京亮墓所

県道29号を吉田から向原へ向かうとき、最初のなだらかな坂の右手(麓側)に玉垣で囲まれた林が見えてくる。 木々の合間に沢山の石塔が積み上げられている。それらとは別に整えられた墓域が区切られ、「國司右京亮墓所」の石柱が立つ。 『芸藩通志』国司*1村…

山の鼻の一里塚跡

あけぼの橋のもう片方の端は県道122号(和木大竹線)と交わる。橋を降りてまっすぐ進むと町役場などのある中心部へ。最寄りの停留所は「上灰場」。 交差点の角は花壇のある広場で、「平成7年度自治宝くじ助成事業」の柱が道行く人にアピール。 広場にはその…

去年と一昨年の周年

郷土資料館の建物は明治44年に建てられた。 なので百周年となった一昨年、平成23年に企画展「旧宇品陸軍糧秣支廠100年」が開催された。 資料館建物今昔 のページで「竣工時の庁舎と缶詰工場(明治44年)」と「広島市郷土資料館に改装される以前(1983…

宇品西公園とその北

宇品御幸2丁目の北西隅が宇品西公園で、陸軍糧秣支廠の缶詰工場の敷地だった所。建物の一部が公園南側の広島市郷土資料館として使われている。 資料館建物以外に残されている煙突はグラウンドの西にある。煙突のそばに立っている説明板は、煙突そのものの説…

白字の城郭図

二の丸の中にある「広島城城郭内全域図(西暦1800年ごろ)」には、当時の城内の施設名が描かれていて、城の北西部で本川と接しているところは「羽子板堀」とある。近くの門は「西白島門」。 銅板の色の地に黒い線で当時の城郭の配置が描かれる。そこに加わる…

広島城「堀から見る広島の変貌」

二の丸の復元建物についての説明板「平櫓・太鼓櫓・多聞櫓」には、破壊される前の櫓が写っている昭和初期の写真が載っている。櫓の手前にはレンコン畑の広がる内堀も見える。 堀から見る広島の変貌(へんぼう)〜城下町から近代都市へ〜 : 広島城ホームペー…

堀の跡と線路の地図

市営三之丸駐車場の福山城西外堀跡には石垣が一部保存されていて、建物の外に説明板が設置されている、というのはすでに見た通り*1。 文中に「福塩線高架下に保存されている出桝型櫓台」とあるように、外堀と鉄道高架が交わる部分に櫓台跡が残っている、とい…

八幡橋

国道2号が通っているのが「八幡川橋」*1で、その上流にあるのが「八幡橋」。川の名を橋に使う場合「○○橋」が先行して「○○川橋」が後発になりがち。 旧西国街道にあたる。西詰めが県道199号*2の曲がり角で、五日市駅北口へ通じる。東へ渡ると皆賀の南端を少し…

城山とその境界

造成された城山の区画の一部に整備された墓地。坂道から見上げるような墓地の入口に区画整理事業の竣功記念碑がある。平成元年の建立。 施行区域 五日市町大字五日市字城山地毛 大字保井田字扇面石飛茶臼山西 大字倉重字向山山根原 五日市町折出 以上の一部 …

「亀居」城跡

昭和60年に亀居城跡は大竹市の史跡に指定されている。駐車場に上がる道の入口に碑がある。 園内には城跡としての説明板がある。詳細はさておき、 なお、この城が亀居城と称されたのは城地が亀の伏した形に似ていたことに由来します という語源についても触れ…

亀居公園のルール歴

大竹市東部の亀居城跡は「亀居公園」として遊歩道や並木が整備されている。城跡の要素が薄まって、眺めのいい公園という特徴が前面に出されているのは、尾関山城跡や神辺城跡や鞆城跡に共通する*1。 南側の出入り口近くに、錆びついた注意書きがある。北側駐…

平成九年の説明板

そういう年であったから、郡山城や清神社だけでなく関連の史跡の整備も進んだり説明板も更新されたりして訪問者に備えたのだろう。 例えばサッカー公園への道の途中にある「尼子下野守義勝(久幸)の墓」。 道の脇にこんもりと竹のしげる小山があり、入口に…

周防国衙跡の史跡公園

周防国衙跡は昭和12年に国の史跡に指定される。土居八丁と呼ばれた方形の区画のほか、近隣の関連区域が対象。「國聽」碑の手前に昭和15年設置の碑が立っている。 発掘調査は昭和36年から39年に行われ、以後保存の対策がとられるようになった。現地の説明板に…

伝清盛塚の飾り

昭和26年指定の、県の史跡としての名称は「伝清盛塚」。その塚の発端ははっきりしないにしても、ながらく平清盛と絡めて伝えられてきたという、意味づけの蓄積にも意味がある。陸地側手前にある「改修記念碑」も遺跡そのものではないにせよ、顕彰がなされた…

清盛塚と松

同じ案内図中の右隅に吹き出しがあり、「清盛塚」が音戸大橋のそばにあることが図示されている。 そのあたりは、平清盛像や光田庭園展望台あたりからはかすかに松の木が見えるような位置にあり、人工で開削したとの伝説を思わせるような陸続き感が得られる。…

高烏台

警固屋の方から音戸の瀬戸を臨む高台が「高烏台」で、もと砲台のあった軍用地が戦後に「音戸の瀬戸公園」として整備された。説明板には、たぶん読み間違えられやすいためか「たかがらす」の振り仮名が見える。 広島湾の入口の要所に砲台を設ける「呉要塞」*1…

本川の常夜灯

玉垣の外にも住吉神社の石造物がある。 道路を挟んですぐの川べりに常夜灯が立っていて、そこより下手は雁木の連なる幅広の船着場跡。この神社正面の曲がり角がかつての国道432号。

三之瀬の常夜燈

その、鞆の常夜燈を模したものが下蒲刈島の「蒲刈島御番所跡」*1にある。昭和52年の設置。 波止の突端左右に木製の常夜燈が置かれ、波止の奥に御番所が置かれた。(現在の蘭島閣美術館の位置) 遺跡案内 常夜燈 : 蘭島文化振興財団 公式ホームページ 文化12…

毘沙門台東

参道周辺の団地造成は第三期工事にあたる。 昭和62年 4.24 広電ニュータウン毘沙門台の第3期住宅団地建設起工式を行う 『広島電鉄開業80創立50年史』広島電鉄.1992 翌63年2月18日、造成現場から土器が出土したことから記録保存が行われ、緑井町字石屋山・字…

神辺城跡の案内表示

前項写真のように、本丸跡と二の丸跡には平成17年設置の石碑によって遺構の要素を示している。 それらも含めて「神辺町観光協会」による説明板や順路表示が要所要所に設置されている。 中には、矢印の示す先がわかりにくいからか、落書きで苦情を伝えようと…

神辺の城山

同じく支城の神辺城については、天和三年の「安那郡川北村絵図」に「城山」が見える。 その絵図は、東を上にして神辺の宿場町を中心に置き、町を挟むように右手に「城山」・左手に「秋丸」の山が描かれる。神辺駅の案内図の場合、市街地が中心になるので左上…

鞆の城山

「福島正則の20年」展のうちの一点。 鞆城跡については、元禄年間の「鞆町絵図」が展示されている。当時は福山藩の代官所となっており*1、山の北麓に「御屋舗」と書かれている。破却後も櫓門と堀などの一部施設が残っていた。 現在の城山は公園と資料館のあ…

説明板三様

広島県の文化財 - 恵下山・山手遺跡群 「恵下山・山手遺跡群」は古代の集落跡と中世の城郭跡からなる。現地にある説明板にも、全体の説明もあれば要素の説明もある。 史跡碑と同時期に置かれた「恵下山住居跡群」の説明は、もっぱら住居跡群(5戸分)を詳細…

恵下山・山手遺跡群の史跡碑

案内図にもあるように、広島県指定の史跡「恵下山・山手遺跡群」の碑は、広場と山道の境の路傍にある。 両遺跡は、高陽町玖の丘陵上の住居跡で、史跡に指定されたのが昭和49年4月。背面に県と市の教育委員会の名が並ぶ。昭和48年に高陽町が広島市にされてい…

恵下山公園と高陽高校

城山の対岸には恵下山があり、古代住居跡と中世城郭跡を含めた「恵下山公園」が整備されている。 北の展望台の眼下には高陽高校の敷地があり、さらに向こうには可部の町や高松山が見える。 広島県立高陽高校〜Hiroshima Prefectual KOYO Senior High School …

八木城跡の山容

八木城跡については、 八木(やぎ)城跡 「広島市未来都市創造財団文化科学部文化財課」のページに概要がある。 北東部の山頂と南西部の山頂や斜面に郭が連なっていて、南西部の頂部*1に水源池があるため、北の「城山北中学校」方面からの道路が伸びている。…