環藝録

写真でつなぐ広島風物記録

遺跡

賀茂郡の火ノ釜(ニ)

賀茂郡寺家村の書出帖の記述は以下のとおり。 火之釜 凡入二間幅壱間深サ六尺斗廻り石垣にして上に大石のひらなるを置く上古木巣穴居の遺跡なるか或ハ落人の隠家ともいひ或ハ人皇廿六代武烈天皇の御宇苛虐の政行ハれける故かやうにては後ハ火も降るべしと人…

賀茂郡の火ノ釜(一)

賀茂郡ではもっぱら「火の釜」の呼称でまとめられている。 『国郡志御用郡辻書上帳 賀茂郡 文政二年卯五月』に「寺家村熊野跡村書上帖ニ相見」と、記載のある2ヶ村を挙げるだけでなく、「西條庄高屋庄之内に数々有之由」と、記載していない村々にもあると補…

安芸郡の籠塚

矢野村の「下しらべ書出帖」が「童迄も前々ゟ火ノ釜ト唱、又こもり塚トモ呼来り申候」と書くように、安芸郡内では「こもり塚」(籠塚)の名で記載している村が連なっていて、「火ノ釜」よりも一般的であったらしい。 奥海田村は既に見たように「百姓腰林之内…

矢野東の古墳(ニ)

もう一度「火ノ釜」の形状についての記述を抜き出すと、横穴の寸法と石組みの出来と間口の広さが調べられている。 何レモ同様ニテ幅壱間、長壱間半、高サ五尺位有之候所、此穴之内大石ヲ積立、至極手堅ク立派ニ調、戸口ハ凡三尺四方 それらの西崎山や近隣の…

矢野東の古墳

矢野村の「下しらべ書出帖」では「火ノ釜」という古跡も「西崎山」のものとして登場する。 此火ノ釜ト申スハ御建西崎山の内二三ヶ所有之、何レモ同様ニテ幅壱間、長壱間半、高サ五尺位有之候所、此穴之内大石ヲ積立、至極手堅ク立派ニ調、戸口ハ凡三尺四方ニ…

「入口」の遠近

熊野方面への峠にさしかかる手前が呉市方面への分岐点になるので、バス停は「昭和入口」。矢野と接するのが呉市の昭和地区(旧昭和村*1)のためだが、「焼山」の方が通じやすいかも。現県道にたいして「旧県道」、さらに以前の「古道」がその痕跡をとどめて…

千光寺護摩堂以前

千光寺の山上にも三重塔があったというが、こちらは火事ではなく岩の崩落による倒壊と伝える。 本堂の手前の護摩堂に「千光寺略縁起」が掲げられている、その一部。 三百年前迄は当山城主杉原民部太夫元恒の守り本尊毘沙門天を安置する三十の宝塔ありしも山…

水野勝成墓所の周り

福山駅の東に連なるJRの高架の「水野公園橋りょう」部分が水野勝成墓所に隣接している。 橋梁に面して沢瀉紋を据えた門扉があり、そこからまっすぐ奥の大きな五輪塔に通じる。門の脇にある「福山開祖水野勝成公墓地」と大書された碑は「明治三十三年有志者建…

観音免の桜

傾斜のある土地にある桜は、下から見上げられる姿で印象づけられる。 海田町ふるさと館に登る坂道から、最初に見えてくる桜は赤羽川の脇に立っていて、建物に枝を差しかけるように東へ花を広げる。 館の背後の観音免公園にもところどころ桜があって、大きな…

出迎えの松跡

安芸区中野の瀬野川沿いにある「中野砂走りの出迎えの松」は、西国街道の松並木の名残。市指定の「史跡」なので、木があっても「跡」。説明板の写真は昭和6年の水田風景。 河川敷脇の水路と車道に挟まれた、堤防上の細い土地に並ぶ松。 枝が横へ凭れるとする…

消防団倉庫の傍ら

近代の消防のための警鐘台は、その痕跡として台座そのものが残っていたり*1、寄附者の名を刻んだ石柱が立っているだけだったり*2で、人目につく場所であり続けていても存在感はさまざま。安佐北区亀山南、大毛寺川沿いの消防団倉庫の敷地に立つ石柱は後者の…

巡錫の求聞持堂

弥山の山頂手前には、弘法大師が修行したと伝える求聞持堂。「付近には原始的な磐座信仰の対象とみられる巨岩が多く、これに習合した真言密教の遺跡が少なくない」ということで、古くから誰かしら修行に訪れたのには違いない。 ここに限らず、修行者が「大師…

仏像の収蔵庫

麓の案内板にあるように、文化財の展示施設としては「歴史民俗資料館」と「古保利薬師収蔵庫」の二ヶ所が並んでいることになる。 北広島町 古保利薬師収蔵庫・千代田歴史民俗資料館 資料館で入館料を払い収蔵庫の扉を開けていただく、という流れなので、やは…

和久原川の水刎

「尚 三次市の浅野堤にも刎が造られていました。」と文末で触れているのが、三原市館町の「和久原川水刎」の説明板。「刎」と書いて「はね」。 県道55号の東に沿って南へ流れた和久原川が、神明大橋の南で東へ向きを変える。橋のすぐそばの川下に突き出た石…

旭堤

「旭町(近世土木遺跡)」という名で堤防遺構についての説明板が立てられている。「市の都市計画街路事業旭町通り線の新設に先立ち」、平成3年度から4年度に調査がなされ、公開展示されている石積みの近くには「水はね」の遺構も見つかった、とある。(その…

堤防の段差

西城川西岸の堤防上からすぐ見える位置に三次フードセンターがある。堤防下の道路と西からの道路が交わるところ。 堤防には上と下の二箇所の歩道があり、斜面は一面の緑。下の歩道の途中に「旭堤」という近世の堤防遺構が展示されている。車道よりも低い位置…

美和山古墳群の案内図

津山市二宮にある「美和山古墳群」は、昭和52年の国指定史跡。前方後円墳に「胴塚」、円墳に「蛇塚」「耳塚」の名が伝わっていた。 夜間に通りかかったからその形をよく見てはいないけれど、林の中に墳丘があって、その縁を巡る遊歩道。 南口の案内図には、…

中小田古墳群の位置

たぶん「下小田」や「上小田」よりは、国史跡のある「中小田」が有名で、旧村名の「小田」や「口田」の方が知名度は低いかもしれない。 口田と戸坂に跨って松笠山があり、松笠山を中心とする散策コースに湯釜や山伏塚がある。北に伸びる尾根上に古墳14基が分…

「山伏塚」

小田村の『国郡志御用につき下調べ書出帳』に「古跡」として「山伏塚」が載っている。「松笠山ノ内石ニ而三尺九尺ノ穴ヲ築先年山伏這入申候由申伝候」という内容。 前項の「広島市安佐北区所在 山武士塚古墳群の測量調査」にいう第1号古墳が、竪穴式石室に盗…

山武士塚古墳群

石井隆博 角田徳幸「広島市安佐北区所在 山武士塚古墳群の測量調査」(『芸備』第24集.芸備友の会.1995)に、道教地蔵ルート近くにある「山武士塚古墳群」の測量報告が載っている。 参道の山道はおおむねまっすぐ東へ登る。左手に尾根の高まりが迫り、右手…

湯釜古墳の石室

古墳の詳細は『探訪・広島の古墳』(1991)や探訪・広島県の考古学―百聞よりも一見作者: 脇坂光彦,小都隆出版社/メーカー: 渓水社発売日: 2013/09メディア: 単行本この商品を含むブログ (1件) を見るを参照。古墳は尾根上にあるけれど、所在地の字名は「胡麻…

温泉跡という伝承

境内にある「松笠観音由来記」という説明板には、寺の経歴のあとに「龍水池」「稲生神社」「温泉の湧き出ていた湯釜跡」を紹介している。 「参詣道八丁目の下方の小高い所」にある「湯釜跡」というのは「湯釜古墳」のこと。 湯釜跡 湯坪 弐ヶ所 松笠山当時安…

行在所の大聖院

弥山の麓、大聖院の由緒の文中には、鳥羽天皇・任助法親王・明治天皇がゆかりの人物として登場する。 明治天皇の厳島神社行幸が明治18年。参道右手の観音堂がその際の「行在所趾」にあたる。安西、ではなくて行在。

高杉城跡の説明板

知波夜比古神社参道脇に「県史跡 高杉城跡」の説明板がある。県史跡への指定は昭和59年で、広島県教委と三次市教委によるこの説明板は昭和63年3月。傍らに立つ石柱も同じく昭和63年。 城郭の遺構についての説明のほか、毛利氏との合戦後に再建された神社(市…

高杉城から500m

みよし風土記の丘の新北口近く(浄楽寺古墳群)、舗装された道に突き出た部分に宝篋印塔が立っている。細い水路を挟んだ向かいに5基の石塔もある。 塔に上がる階段が南側にあり、そこから見える石碑の面には「高杉城主祝甲斐守墳墓」とある。 真下の道路から見…

高架の奥の千人塚

廿日市市大野の市街地から大頭神社へ向かう道の途中、赤い鳥居の先で交差する広島岩国道路。 その先の畑の奥に石塔四基と土盛りが石で区切られている。石碑には「長州戦争史跡 千人塚」。場所の名をとって「滝ノ下千人塚」。大野村では慶応2年の6月19日と25…

積石塚と遊歩道

塀に囲まれた吉川氏墓所の隣に海応寺跡とされる区域があり、さらに川寄りの林中に盛土による古墓がある。木々の間を縫うようにこれらの遺跡を巡る遊歩道。吉川元春館跡の遺構が木陰と無縁なのとは対照的。 新しいほうの立て札には「古墓」とあり、盛土を囲む…

吉川元春と元長の墓

吉川元春館跡(海応寺跡*1)に接する山林の中に吉川元春と元長の親子の墓所がある。両者とも九州で亡くなった後ここに葬られた。 もう一基の墓を説明板では元春の四男のもの「と言われているがさだかでない」とする。『芸藩通志』では「吉川氏三碑」の項目名…

毛利一族の墓所

洞春寺跡、毛利元就の墓の脇の壇に一族の墓もある。 城内に散財していた墓所が明治2年に集められたもので、(郡山城主としての)初代毛利時親から8代毛利豊元までが「先祖合墓」(大きめの塚)に、個別に設けられた三基の塚が興元・幸松丸・隆元の妻(大内義…

隆元墓所の入口

郡山城跡内にある毛利隆元の墓所は、菩提寺常栄寺の跡の近く。 大通院谷から毛利元就墓所への道筋だと通りすぎてしまうけれど、少年自然の家や清神社方面からの道だと、分かれ道が墓所への参道となってあらわれる。 入口を示す石碑には「毛利隆元公御墓所」…